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2015年01月31日

札幌交響楽団第576回定期演奏会

 1月30日キタラで聴く。
 今回のプログラムは
ブラームス ピアノ協奏曲第2番 
フォーレ  組曲「ぺリアスとメリザンド」
ラヴェル 組曲「ダフニスとクロエ」第2組曲
指揮はユベール・スダーン、ピアノ独奏 バリー・ダグラス
ドイツとフランスの国の違う曲であるが、スダーンは手堅くまとめた。
バリー・ダグラスは1986年のチャイコフスキー国際コンクールの優勝者。国籍はアイルランドとのことで、チャイコフスキーコンクール優勝者としては珍しい。ブラームスの地味なピアノ協奏曲に相応しい落ち着いた感じの中年の演奏家。指揮もしているというから、多彩な才能を持っているようだ。
スダーンは以前も札響を指揮したことがあるというから、多分聴いていることだろう。
指揮ぶりを見るとフランス曲のような感情の起伏の激しい曲が得意な指揮者に思える。オランダ人にしては小柄で、ジェスチャーが大きい。
オーケストラも指揮に合わせて今までにない音色のある演奏となっていた。新聞ではフルートソロに言及していたが、話し合いの成果が出ていたようで、魅力的なフルート演奏になっていた。  


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2015年01月24日

台湾旅行

台湾旅行               
2015.1.7(水)
 正月明け、おいしいものを食べようという目的で、台湾に旅行した。「10都市巡るたっぷり台湾おいしい旅5日間」。台湾は20年ほど前、一度は仕事で、一度は観光旅行で、二度ほど行ったことがある。
 今回が3度目ということになる。お隣でもあるし、もともと親日的な国でもあるので、気楽な気分で旅行を楽しんだ。
 旅行初日7日はあいにくの低気圧で、出発できるかどうかが危ぶまれた。雪は予報の通りだったが、午後から千歳空港が強風と大雪に見舞われ、国内便は早々と欠航となっていた。我々が乗るエバー航空は3時に乗客を飛行機内に乗り込ませ、天気待ちで、粘りに粘った。同じく台北に飛ぶ予定の中華航空も欠航を決め、エバー航空もあわや欠航かと思われた。ようやく出発が決まったのが夜の9時30分。6時間半待機したことになる。千歳空港が夜間閉鎖される30分前のことであり、エバー航空の粘りに空港側が屈した形であった。そこから約5時間のフライトで、台北着が1時(時差1時間)、台中のホテルに到着したのが、3時近かった。それでも旅行が中止にならずによかった。
1.8(火)
 7時半のモーニングコールで叩き起こされ、旅行初日に出発。40人乗りのデラックスバスに11人のツアー客。ガイドが劉さんという中年のおばさん。ややおぼつかない日本語でガイドをしてくれる。劉さんも昨夜空港で待たされたので、ややご機嫌斜め。最初の観光地は日月潭であった。この湖はエメラルドグリーンの美しい湖水の色が売り物であるが、あいにくの霧で、風景は良く見えなかった。文武廟という孔子、関羽などを祭っている廟を見た。旅行書を見ると、文武廟は次のように記されている。

「日本時代、日月潭のそばには二つの廟があった。水社村の龍鳳宮と卜吉村(現在のイタサオ)の益化堂である。やがて発電所の工事が始まって、日月潭の水位が上昇したため、二つの廟は撤去されることになった。廟は電力株式会社によって買い上げられて、それで得たお金で記念の廟が建てられた。1934年、二つの廟は合併されて日月潭の北側に再登場した。これが今日の文武廟である。

文武廟は中国北朝宮殿式の建築で、規模は大きく、壮麗である。廟は三殿に分かれる。前殿二楼は水雲宮で開基元祖および文昌帝君を祀る。中殿武聖殿は関聖帝君および岳武穆王を祀る。後殿大成殿は至聖先師孔子を祀る。文武廟大成殿は全台で唯一正門を開いた孔子廟である(一般の孔子廟は平常閉まっている)。廟によると、日頃から参拝客が多いため、出入りの安全を考えて正門を常時開けているという。大成殿には青銅の孔子坐像があり、台湾で唯一聖像を奉る孔子廟となっている。孔子のほかに孟子および子思という三尊神像があるが、これらはもともと中国大陸にあって、義和団事件の際に日本の狭山不動寺に運ばれ、その複製が文武廟に奉じられたもの。」

 劉さんからはいかに台湾人の寄付によって、この廟ができたかが詳しく語られた。日本からも多額の寄付が寄せられているとのことだ。
 昼食は紹興酒料理。最初の中華料理でもあり、おいしかった。
 次に八田与一記念公園を見る。八田与一は日本時代嘉南省の烏山頭ダムを建設し、農業治水工事に業績があった。東京帝国大学出身の技師で、沼地であった嘉南平野を台湾一の農業地に替えた偉人として台湾の教科書にも載っているほどの人物である。残念ながら太平洋戦争で乗った船が撃沈させられ、戦死している。その妻も与一の死後ダムの放水路に投身自殺を遂げている。記念館には二人の写真が掲げられているが、悲劇的な結末が一層台湾人の心をとらえているのであろう。
 次に高雄の蓮池譚を見る。蓮池潭は、人造湖で観光スポットとなっている。敷地内にある春秋閣は1951年に、龍虎塔は1976年に、建てられたという。ここにも孔子廟がある。劉さんが言っていたが、中国本土では共産党が古い宗教や慣習を排除したために、現存する台湾に本土から来てそれを学習しているという。夕食は旗津地区で海鮮料理を食べる。
旗津地区はウィキペディアによると、なかなか歴史のあるところのようだ。
「旗津区は集落が旗山の後ろに位置していたことから、古くは旗後と称されていた。この地域は高雄港発祥の地であり、市内でも最も早くから開発が進んだ地域である。明末清初より多数の中国船が入港し、1860年にイギリスと北京条約が締結された後、旗後は正式に開港し、通商を開始した。1862年には清により旗後に税関が設けられ、下関条約により日本に割譲された後は、高雄で最初の学校として打狗公学校(現在の旗津国小)が設立されている。1909年には打狗区の区役所が設けられ、それは1920年に高雄街の移転するまで存続していた。
1925年、台湾総督府は「旗鼓堂皇,津粱永固」にちなみ旗津と改名し、戦後は高雄市により区名としてこの地名が継承された。1979年に高雄が直轄市に昇格すると、旗津の行政範囲として東沙諸島及び南沙諸島が含まれることになった。」
1.9(金) 
高雄市内を見学。忠烈祠を見る。壽山という山の400m位の高台にあって、高雄の市内が良く見える。
旅行書を見ると、
「寿山山麓にある、もとは日本の神社で、太平洋戦争時、日本はここを「高雄神社」と称した。戦後、政府はただちに忠烈祠に改め、愛国の勇士を祭った。春と秋には自治体の首長も参加して祭典が執り行われる。建物が古くなったことから1974年に中国宮殿に改築された。四周はうっそうたる緑に包まれ、老いた松が屹立している。境内からは高雄湾が望め、その風景は高雄市名風景の一つに選ばれている。近年は、改装を進めるとともに民間に委託して茶芸館を経営している。文化史跡の活用の一例である。」
 高雄から高速道路を台北に向かう。途中旗山のバナナ園を見学する。以前は日本が良いお客であったが、価格でフィリピン産に負け、今では輸出は減っているという。案内のおじさんが裸足であることに驚く。旗山の市街を散策する。製糖業で昔栄えた所だそうで、趣のある市街地であった。今は走っていない台湾鉄道の旧旗山駅に昔の面影を見る。昼は客家料理。素朴な田舎料理だ。
次いで彰化市八卦山の大仏を見る。台湾で一番大きな大仏だそうだ。高さが21.6m。1961年に建造され、まだ新しく、顔立ちは日本の大仏とは違うが結構ハンサムだ。
台北に戻って市内観光する。夕方、士林夜市を巡る。夜市はたくさんあるが、台北でも一二を争う規模の大きな夜市だ。お土産屋や雑貨、飲食店が軒を並べている。
夕食はモンゴルバイキング。さらに食べるだけの肉や野菜を取って、1分ほど焼いてもらって食べるという食事。腹は一杯になるが美食とは程遠い。鍋もあったが、餃子がメインでおいしいとは言えなかった。
1.10(土)
台北市内観光。最初に双連朝市。夜市の朝市版。こちらも大賑わいであった。次に忠烈祠の衛兵交代を見る。忠烈祠は台湾護国神社の跡地に建てられた。衛兵交代の儀式が見ものである。
「・・・・・・陸・海・空軍より選抜された兵士が、1時間交代で大門と大殿を各2人ずつで守っている。任務に就くと1時間微動だにせず、瞬きも控えている。側には世話係がつき、ハンカチで衛兵の汗を拭いたりしている。
衛兵交代は1時間毎に行われる。毎時ちょうどになると引率の兵士1人を含む5人(任務に就いていた兵士とこれから就く兵士)で隊列を組んだ儀杖兵が、大門から大殿に向かって銃を背中に背負ってゆっくりと行進を開始する。大殿に到着すると、儀杖兵は任務に就いていた衛兵2名と合流して、殿内の位牌に向かい敬礼をする。その後、銃を交換、またそれを振り回す儀式を行い、次に任務に就く2名を残して、5名で大門に戻って行く。そして、大門に行くと大門守護の任務に就く2人が門の前に行き台の上で任務に就く。セレモニーの所要時間は約20分間。儀杖兵の資格だが、高卒以上で犯歴がなく、身長175cm - 195cm、体重65kg±1kgが条件で、その上に厳しい訓練が課せられ、それを成し得た者のみが儀仗兵になれる。」
次に故宮博物院を見る。1時間余りしか見物時間がなく、駆け足で有名な3点の宝物を見る。白菜にキリギリス、イナゴ(バッタ?)止まっている翡翠の彫刻、五重に彫られている象牙の彫り物、古代の青銅器などである。蒋介石が大陸から逃れてきた際に北京の故宮博物院から持ち出した宝物が展示物である。従って大きなものはないが、貴重なものが多い。書画の類は全く見て回る時間がなかったが、いつかゆっくり見てみたいものだ。
昼食は鼎泰豐(ディンタイフン)の小籠包。
「鼎泰豐は1958年中国山西省出身の楊秉彝(ヤン・ピンイー)によって、台湾台北市信義路(永康街)に第1号店が開かれた。鼎泰豐は、食用油を販売する油問屋として開業した。小籠包の販売は、本業の食用油の売り上げが落ち込んだ時期に、副業として開始された。
その後、鼎泰豐の小籠包は地元民に評判となり、1980年代には本業であった食用油の販売を取りやめ、小籠包の専業食堂に商売替えをした。当時は近隣住民が利用する地元の食堂にすぎず、台湾国外の観光客をターゲットにした商業形態は採っていなかった。
1993年、アメリカの『ニューヨーク・タイムズ』紙で「世界の10大レストラン」に選ばれた。同紙の紹介によって一躍知名度が上がり、台湾国外から多くの観光客が、台北の店舗に来店する転機となった。その後、台湾国外店舗としてロサンゼルスと東京の店舗を開店させ、続く国外の店舗を次々と開店していった。日本においては東京都内の中央区・港区・渋谷区・世田谷区・立川市のほか、横浜、名古屋、京都、大阪、福岡、熊本などの各市に店舗を持つ。大半の店は高島屋内への出店である。これは、高島屋の子会社である「アールティーコーポレーション」が運営している事による。また、同社は香港の糖朝の日本支店も運営している。」
今は日本の各地に支店があり、食べられるようになっているが、まだ札幌には支店がない。高島屋がないためであろう。この美食の旅の目玉だけあって、大変おいしかった。これを食べただけでこの旅行は大満足であった。
午後は中山祈念堂を見学する。
「中正紀念堂は、中華民国の初代総統である蒋介石を顕彰し1980年に竣工した。中正紀念堂の「中正」とは蒋介石の本名である。
蒋介石が1975年に死去した際、行政院(日本の内閣に相当)は全国民の哀悼の意を表すことを目的とする紀念堂の建設を決定し、同年6月26日に14人の政治家、文人、実業家からなる中正紀念堂建設委員会を設置した。同年7月、委員会は大局的な建設方針を決定し、また民間の専門家の意見を取り入れ、8月22日にはコンペティション要綱を公開した。その1年後、43組の応募の中から楊卓成の設計案が採用された。」
夜は九份を見学する。
「その昔、九份は台湾の一寒村に過ぎなかったが、19世紀末に金の採掘が開始されたことに伴い徐々に町が発展し、日本統治時代に藤田組によりその最盛期を迎えた。九份の街並みは、日本統治時代の面影を色濃くとどめており、路地や石段は当時に造られたものであり、酒家(料理店)などの建物が多数残されている。
しかし、第二次世界大戦後に金の採掘量が減り、1971年に金鉱が閉山されてから町は急速に衰退し、一時人々から忘れ去られた存在となっていた。1989年、それまでタブー視されてきた二・二八事件を正面から取り上げ、台湾で空前のヒットとなった映画『悲情城市(A City of Sadness)』(侯孝賢監督)のロケ地となったことにより、九份は再び脚光を浴びるようになる。映画を通じて、時間が止まったようなノスタルジックな風景に魅せられた若者を中心に多くの人々が九份を訪れ、メディアにも取り上げられるなど、台湾では1990年代初頭に九份ブームが起こった。ブームを受け、町おこしとして観光化に取り組んだ結果、現在では街路(基山街など)に「悲情城市」の名前を付けたレトロ調で洒落た喫茶店や茶藝館(ちゃげいかん)、みやげ物屋などが建ち並び、週末には台北などから訪れる多くの人々で賑わっている。」
ここでは、街並みをツアーからはぐれないように付いていくのに精いっぱいで、店や、食堂をゆっくり見る時間がなかった。ただこんな山の中に一大観光地ができていることに驚くばかりである。夕食は夜景が良く見えるレストランで郷土料理を食べた。おいしかったが昼の小籠包にはかなわない。
1.11(日)
9時30分の飛行機で、新千歳空港に向かった。新千歳空港着12時45分。帰りは早かった。




                                                            以上
  


Posted by 北のフクロウ at 10:16Comments(0)旅行

2015年01月24日

トレイル・オブ・ティアズ A.Jクィネル著 集英社

 クィネルの本を図書館で見つけた。燃える男、メッカを撃て、スナップショットなど謎の作家として異彩を放っていたが、このトレイル・オブ・テアズで少し正体を現している。イギリス人で、タンザニアで育つ。スイス、香港でビジネスマンとして過ごし、作家に転身。地中海の島で作家活動をしている。その生活ぶりはのちの作品で反映されている。
 この「トレイル・オブ・ティアズ」は直訳すると「涙の旅路」で、インデアン・チェロキー族の族長の言葉「人生は危険と恐怖に満ちているが、一度はトレイル・オブ・ティアズ」を歩かなければならない。」に由来する。チェロキー族FBI捜査官レッドバード・ギャレットの休暇の理由が「トレイル・オブ・ティアズ」を歩くということだったので、それに引っかけた題名になっている。このチェロキー族の動きは謎で、この本の主題であるクローン人間を作り出すという国家的な陰謀をつぶす原動力になっている。
 それにしても記憶をクローン化するというプロジェクトは魅力的である。もしも自分の記憶をクローン人間に移植できるとしたら、生まれてからの学習が不要になってしまうではないか。これは朗報であり人類の新たな飛躍が期待される。悪用されると怖い。  


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2015年01月23日

トルーマン・レター 高嶋哲夫著 集英社

 トルーマンが廣島・長崎に原爆を落としたのは太平洋戦争の終結のために必要、もしそれがなければ原爆犠牲者(30万人と言われる)以上の死者が出たであろうから、やむを得なかったといわれる。しかしその必要があったかどうかは議論のあるところで、原爆の悲惨さを考えると、虐殺である、という事も出来る。この小説はトルーマンのおかれた位置、ルーズベルトの急死によって自動的に副大統領から大統領になった、選挙の洗礼を受けない大統領であったという引け目、心底からの日本人嫌いなどから反対を押し切って原爆投下をしじしたという。これは小説の世界であるがそれを売らずける手紙があって、それが明るみに出た場合、どんな影響があったかというフィクションであるが、日本人の心情を思うとやり切れない思いがする。昭和天皇がアメリカに行った際に太平洋戦争を不幸な出来事と言い、戦後の復興に援助の手を差し伸べたことに対し、アメリカに謝意を表されたことは有名な出来事であるが、被爆者の関係者にとって複雑な思いであろう。
 女性主人公の夫が被爆二世であったことから、トルーマンの手紙を公開しようとする気持ちはよくわかる。  


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2015年01月21日

わたしの台南 一青妙著 新潮社

 正月明け、台湾に観光旅行した。その関係で読んだ本。作者は歯医者で、作家で、女優という才女。「はなみずき」のシングソングライターである一青窈 のおねいさんだそうだ。才能に恵まれた姉妹だ。彼女らの父親は戦前台湾の五大家のひとつに数えられた名家の出身で、鉱山で財をなした家だそうだ。母親が日本人で、日本で育ったらしい。でも地は争われず台湾と行き来している。その中でこの本が生まれた。
 おいしそうな台湾料理がたくさん出てくるので、台南に行って食べたくなった。  


Posted by 北のフクロウ at 09:45Comments(0)読書

2015年01月21日

衛星軌道の死闘 ボブ・ラングレー著 新潮文庫

 ボブ・ラングレーも地球上では舞台が限られると見えて、ついに宇宙衛星までステージを広げた。
 米ソの争いと言うところが時代を感じさせるが、生物兵器や粒子ビーム兵器、防御シールドなど近未来的な兵器が登場し、新境地を展開している。おまけに1000mの海中化での潜水艇まで出てきて、上下に活動の幅が広がってきた。ますますボブ・ラングレーが面白くなってきた。
   


Posted by 北のフクロウ at 09:34Comments(0)読書

2015年01月21日

ブリザードの死闘 ボブ・ラングレー著 新潮文庫

 フォークランド戦争で精神的なダメジを受けたイギリス系のアルゼンチン人が攻撃を受けた潜水艦に破壊工作を行う物語。スコットランド北部の山岳地帯が舞台となっており、ボブ・ラングレーの面目躍如と言ったところ。破壊工作自体はみごと失敗するが、主人公が山に逃げ込むところが登山場面となる。ボブ・ラングレーはシリーズでないため、各作品ごとにテーマや主人公が違う。それぞれが魅力的な主人公であるが、この作品では戦争で戦艦が沈没し、生きる目的を失った主人公が潜水艦に報復することで生きがいを見出す。破壊工作その者は随分杜撰な計画で、撤退する選択もあったのにやみくもに突っ込んでいく主人公の心理が良く描かれている。  


Posted by 北のフクロウ at 09:24Comments(0)読書

2015年01月03日

エベレストの彼方 ボブ・ラングレー著 創元文庫

 著者の「北壁の死闘」と同じ山岳もの、舞台はヒマラヤである。
 CIAの工作員で死亡したと思われた夫の安否を確認し、アメリカに連れ戻すために妻のテレビ局プロデューサーがネパールに入る。
 そこで協力者となるイギリス人パイロットがなかなかの曲者。ヴァイオリンを片見はなさず、自分を名演奏家と考えている変人、奇人である。
 そこにダライラマが絡んで、息詰まる攻防が見られる。
 現在から考えるといくつかおかしいところがある。ひとつは当時の政治情勢で、アメリカと中国に歩み寄りが見られ、サハリンや千島の観測地を確保するために中国との間に科学技術協定をアメリカが結ぼうとしている、ということだ。サハリンと千島の観察ならば北海道が最適地であって、無理に中国と協定を結ばなくてもできるであろう。もう一つはチベット仏教の高位のラマによって一度死んだ人間が蘇生することで、プラーナを吹き込まれたという表現で描かれているが、科学的には無理がある。
 そういうことに目をつぶって読む分には、ヒマラヤの美しい山岳風景や岩登りの苦労など登山小説としても楽しめる小説となっている。  


Posted by 北のフクロウ at 09:08Comments(0)読書